★「ONE MORE YMO」全曲解説★
※文中の『』内の記述は、すべて高橋幸宏氏によるライナー解説文からの引用です。
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海外での成功を受けて国内でも人気が爆発。初の国内ツアー 『TECHNOPOLIS 2000-20』を行い、音楽にとどまらず異常とも言 えるほどの社会現象にまでなったYMO。「20万枚売れれば大ヒッ ト」であった当時、すでにトータルで200万枚以上のセールスを 記録していた。 その国内の騒動をかわすように、第2次ワールド・ツアーに 旅出ったのが1980年10月。この時点で海外のレコード・セールス は、米国で62万枚、英国で24万枚、他欧州で11万枚。 会場はホール・クラスを中心に、ロンドンでの6日間に渡るゲ ネプロの後、ロンドン/パリ/ミラノ/ローマ/LA/NYなど15公 演を行なう。途中、米人気テレビ番組「ソウル・トレイン」にも 出演する。大規模な照明システムを含むステージ・セットは、大 型トレーラーに積み込み、キッチン・ベット付き移動バスに専属 シェフ、各国混合のスタッフ・チームと、まさに本格的。日本人 ミュージシャンとして、これほど大掛かりなワールド・ツアーを 行ったのは、20年たった今でも他にないだろう。 総額5千万円を越えるステージ機材は「経済大国ニッポン」の 象徴でもあり、日本が「ゲイシャ・フジヤマ」から「ソニー・ホ ンダ・ワイエムオー」に遷りゆく、世界で一番「トキオ」がカッ コイイ時代であった。 |
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ツアー・メンバーは、ギターが大村憲司に代り、より攻撃的・ ロック的な演奏が行われる。機材的には。松武のシステムにE-mu のモジュラー・シンセとローランドTR-808が加わる。シーケン シャルのプログラマーMODEL700も導入され、教授のアナログ・ ディレイは1次ツアーのローランドRE-201からヤマハE-1010に 変えられた。 またARPに代って大々的にProphet-5が導入される。Prophetの 最大の特長であるポリモジュレーション・サウンドはYMOの代名 詞ともなり、ノイズ的なサウンドが頻繁に使われ始める。 スネア・ドラムに取り付けられたブラック・ボディーの「BIAS-1」 はその代表格。当時イシバシ楽器のオリジナルとして作られ、振 動をピックアップしてシンセ・ドラム的なサウンドを鳴らすもの で、後に「ホワイト・ノイズが出せないか」という高橋の提案に より、ノイズを加えたシルバー・ボディー「BIAS-2」となった (現在、復刻版が再発売されている)。 Pollard/ULT SOUND SD-4カスタムといったシンセ・ドラムも 「ピューンピューン」といったサウンドから、リング・モジュレ ーション風の金属系のものが多く使われるようになり、演奏スタ イルは1次ツアーと大きく変わらないものの、そのサウンドはア バンギャルドな色を強く打ち出していた。ちなみに、このツアー の機材リストは、ツアー後に発表されたアルバム「BGM」の裏ジャ ケットに印刷されている。 ツアー前半のハイライトであるロンドン・ハマースミスオデオ ン公演は、業界人を始めとする3,000人以上の観客で埋め尽くされ、 イギリスの国営放送BBCによるライブ録音も行われた。その一部は、 国内でもNHKによりFM放送されたほか、96年に発売されたライブCD 「World Tour'80」でも聴くことができる。ライブは、延々と続く SEの後、その最たる曲「RIOT IN LAGOS」で幕を開けた。 |
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ツアー後半の米国・LA公演は、新設のA&Mチャップリン・メモ リアル・スタジオのこけら落しとしてYMOがステージに上がり、 その様子は衛星生中継で日本で放送された。 「SOLID STATE SURVIVOR」は、2ndアルバムのタイトル曲でも あり『気分が、ちょっとイギリスに向かいはじめていたイメージ の代表曲』で、『ニューウェーブなんかに象徴されるような、ロ ック寄りの演奏』だった。さらに、大村憲司のギターが拍車をか けている。80年のYMOサウンドに大きな影響を与えたギタリストだ (残念ながら、大村憲司氏は一昨年、49歳の若さで永眠された。 心よりご冥福をお祈りする)。 |
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ツアー最終地・東京では武道館で4日間の公演を行い、未完成 な状態で海外を渡り歩き、試行錯誤の結果の集大成と呼ぶべき演 奏であった。「RYDEEN」は、『みんな演奏がこなれてきて、勢い があり』、印象的なシーケンス・パート、教授の余裕とも言える サウンドの組合せ、遊び感覚あふれるSEとシンセ・ドラムのソロ など『'80年代の総決算的な演奏』でもあった。このライブで、 YMOはピコピコ・ライブ・スタイルを終結させた。 |